21世紀最初の年も終わりに近づきました。今年は子どもが被害にあう事件の多かった年に感じます。
来年こそ子どもたちにとって安心で豊かな年になることを願うばかりです。

 さて、改正児童虐待防止法が施行され1年がたちました。
にもかかわらず児童虐待事件は一向に後をたちません。最近でも週に2・3回のペースで新聞に載っています。
泣き止まないから布団を掛けて押さえたとか、金槌で頭を殴ったとか、裸でベランダに放置したとか・・・・、方法は違えど幼い子どもの生命が失われているのは事実です。でも不幸にも亡くなった場合には新聞に載りますが、報道されないけれど重体でであったり後遺症が残るほど痛め付けられた子どもはその数十倍・数百倍もいると言われています。
誰に聞いても「虐待はすべきではない」という回答が返ってくるのに、なぜなくならないのでしょうか。
原因はいろいろあるんだと思いますが、私はその中で共通した原因のいくつかに注目しています。
その1つ目は、子どもがどんなものなのかわかっていない。特に子どもの未熟さに関して理解されている様子を感じる事ができません。
子どもは体も意識も未熟な存在です。そしてこの未熟さが子どものの中から減っていく過程を育ちといいます。この育ちですがいくつかの面があって、「運動機能」・「思考」・「理性(社会性)」の3つに分けることが出来ます。この中で一番未熟の機関が短い(早い時期に大人と同じようになる)ものは「運動機能」です。
運動機能というものは2・3歳ころまでに基本的機能は完成し、その後は使えるようになった機能を使うことでそれを充実させるだけです。
次に未熟の期間が短いのが「思考」です。思考というものの完成には一般的に時間がかかると思われがちですが、それは思考というものが経験や知識を土台や材料にするからで、考えるという能力は小学校低学年程度で完成すると考えられます。
そして一番時間がかかるのが、ルールを守ったり、わがままを押さえたり、他への配慮をするといった「理性」といわれるものの育ちです。この理性の育ちの完成は17・18歳くらいまでかかります。それはこの理性というものが親子関係や社会関係、保育や家庭教育・学校教育、グループ活動等の経験を通して養われるからです。さらにいうならば、この理性というものは本来人間(動物)として発生する欲求の制限をする能力だから育つのに多くの時間がかかるのです。
ところが虐待事例を見てみますと、子どもが仕事の邪魔をしたとか、言う事を聞かない、泣き止まない等、未熟な子どもにとってはどうにもならない事がきっかけで虐待を受けています。
これは大人が子どもを大人と同じ感覚で見たり、ちょっと言い過ぎかもしれませんが、親自身の理性の育ちが完成しておらず、子どもとの共存生活において子どもの行為に我慢が出来なかったり、自己中心的な発想・行動をしている親の姿が垣間見れます。
今必要な事は目の前にいる子どもの育ちの未熟さを正確に把握し、認識・理解することが大切なのではないでしょうか。
一般的に言われる「大人気ない行為」というのは、「理性が未熟な者の行為」と同意語と感じています。
ある面では、大人になれていない親が虐待を起す比率は高いのかもしれません。

                         ー つづく ー        
子育てって 大変?3

No.9 (h13.12)